新宗教の風土 真宗「原理主義」の台頭

絶対の幸福


 この3つの論争は、先述のように『浄土真宗聖典』にもあるほどのものだから、むろん本願寺の正統的教義からはずれたものではない。しかし、それはあくまで教学レベルのものであり、現場の末寺門徒のレベルでは、上述の「常識」がまかり通っている。そうした二重構造のなかに真宗の「現実」があるのであり、本願寺はそれを意図的に使い分けているのだ、ともいえよう。親鸞会は、本当はその矛盾を突いているのだが、本願寺はそこが弁慶の泣き所なので、議論がすれ違ってしまうのである。このような「現場」のレベルを、宗教社会学の大村英昭さんは、世俗的なものと馴染みやすいカトリックの信仰になぞらえて「真宗C」と呼び、「教学」のレベルを原典に忠実たらんとするプロテスタントに譬えて「真宗P」と呼んでいる。そして、みずからも真宗寺院の住職である大村さんは「教学なき現場」「現場なき教学」という言葉でこの現実を表現している(「ポストモダンと既成教団」『近代化と宗教ブーム』同朋舎、1990年、所収)。いいえて妙というべきであろう。

 ところで、この「三大諍論」は、親鸞会からすれば、本願寺のいわば「邪義」を正すためのものだが、親鸞会はむろん、真宗地帯の門徒大衆だけを布教の対象としているわけではない。その意味で、広く一般の大衆に対しては、これをいま少し一般化したかたちで説いている。それは、およそつぎのようにまとめられるであろう。

 親鸞聖人の教えは「平生業成」の4文字に集約される。平生とは現在只今ということである。業成の業とは人生の大事業、目的のことであり、成とはそれを成し遂げることである。その人生の大事業、目的とはなにか。生きとし生けるもの誰しも幸福を望まないものはないが、その幸福にも、相対の幸福と絶対の幸福がある(高森『白道燃ゆ』)。健康で金があって好きな人と暮らせる、などという世間一般に考えられているものを相対の幸福という。それはいつ無くなるともわからぬ無常のものだからである。されば、永久に変わらぬ「絶対の幸福」を得ることこそ、人生の究極の目的といわなければならない。それでは「絶対の幸福」とはなにか。それは人として生まれた以上必ず迎えねばならない「死」の問題、すなわちそのままでは「必堕無間」「地獄一定」といわれる「後生の一大事」を解決し、生きてあるうちに障りのない大安心の世界、いわゆる「無碍の一道」(「歎異鈔」)に出ること、これである。そして、「信心決定」こそが、そのための絶対条件であることはいうまでもない。その信心とは、自分がいかに深重の罪悪を背負った救いがたい人間であるかということを、ツユチリほども疑わず、だからこそ、そのような人間を憐れんで「もし救わずば正覚を取らぬ」と誓われた弥陀の本願を、これまたツユチリほども疑わない、そのような境地のことである(高森『こんなことが知りたい 3』)。これは「頓成の異安心」のところで述べたいわゆる「二種深信」の教義だが、親鸞会では、それをそのまま受け入れている。

 これが、わたしの理解するかぎりでの親鸞会の教えのあらましだが、親鸞会ではそのような信心獲得のための不可欠の前提として、何よりも「宿善」(過去世に積んだ善根、獲信のための良き因縁)が大事であると説く。その場合、もっとも重視されるのが聞法、つまり法話(とりわけ高森会長のそれ)を聞くことであり、つぎが朝夕の勤行、さらに法施(布教)、財施(布施)等の善に励むことである。このうち法施、財施のほうは、大方の教団に共通するものだが、聞法の重視は親鸞会をきわだって特徴づけているものと言えよう。

 このため高森師は、毎週日曜日を法話の日にあて、本部親鸞会館をはじめ全国各地を駆けめぐり、1996年の例でいえぼ、その間に韓国布教とアメリカ布教を敢行するというハード・スケジュールをこなしている。それ以外の日にも、ほとんど毎日のように、さまざまな講師による法話や講義が各地で開かれ、会員たちは競い合って聞法に励んでいる。
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