新宗教の風土 真宗「原理主義」の台頭

「三大諍論」


 どこの教団でも、教義のない教団というものはまずありえないが、どの程度教義を重視するかという点では、教団によって差がある。たとえば、教主の施すなんらかの術や、その任意的な予言・託宣といったものに重きをおく教団では、それ自体の正当性を弁証するためのほかには、あまり教義を持つ必然性がない。反対に、正統派の仏教やキリスト教、イスラムなどのように、基準となる「教典」があり、そこに込められている「意味」を受け入れることが救済の前提となるような宗教の教団では、それぞれに固有の教義がことのほか重視されることになる。その意味で、親鸞会はむろん後者の列に入る。そこで、つぎに、親鸞会の教義の特徴を見ていくことにしよう。

 会長高森顕徹師の基本的な認識や姿勢を支えているのは、今日の本願寺の信心が、祖師親鸞聖人のそれからはなはだしく逸脱しているという危機感である。このため彼は、親鸞聖人や蓮如上人の教えを、原典どおり一字一句忠実に護ることを信心の要諦としている。その場合、教典の解釈は必ず唯一無二のものでなければならず、親鸞会にあってはおのずから高森師の解釈がそれであるとしている。親鸞会の「邪義」に対する激しい攻撃も、このような「真宗原理主義」ともいうべき性格と表裏をなすものといえよう。また、こうした原理主義そのものが、近年の一部外来系の教団を除く新宗教にあっては、めずらしいものであることにも注目したい。つまり、親鸞会には、その定義に一定の幅を持たせるなら、日本では無いものと見なされてきた原理主義的な宗教存立の可能性を示唆する側面があるからである。

 それはともかく、親鸞会では、本願寺の邪義を正し、みずからの信心の指針とすべきものとして、親鸞聖人が34歳のとき、本願の本意をめぐって法然上人門下の300余人の法友たちと戦わせたとされる3回の論争、いわゆる「三大諍論」と呼ばれるものを特別重視し、法話やパンフレットのなかなどで頻繁に引用している。これは教義の根本にかかわるものであると思われるので、つぎにその要点を紹介しておく。いずれの論争も『浄土真宗聖典』に収められている、その意味では真宗の正統的教義(オーソドキシー)として認知されている覚如上人の「口伝鈔」や「御伝鈔」に記載されているものだが、ここでは「真の故郷法の城」と題する親鸞会の布教用パンフレット所収のものに拠ることにする。

 まず、第一の論争は、「体失不体失往生の諍論」と呼ばれているものである。

 ある時、法然上入の高弟善恵坊が、〈阿弥陀仏の救いは、肉体の亡びた死後に得られる。これを体失往生と言う〉と説法していた。それを聞いていた親鸞聖人は言われた。〈阿弥陀仏の本願は死なねば助からないと言う体失往生ではない。現在この世から救われる不体失往生なのだ〉と。ここに、救われるのは現在か死後かの大論争が起きたが、やがて師の法然上人が来られて言われた。〈平生にすべての人々を救うというのが阿弥陀仏のお約束である。不体失往生を主張する親鸞の方が正しい〉。(「口伝鈔」)

 パンフレットでは、このあとに「仏教の救いは、平生この世ではっきり体験できるのです」と続けている。「救いは死後に」という真宗のいわば「常識」打破をねらったものにほかならない。

 第二の論争は、「信行両座の諍論」と呼ばれている。

 ある時、親鸞聖人は法然上人聖人の許可のもと、法然門下の380余人の弟子たちに質問された。(今私は、信の座敷と行の座敷、二つの座敷を用意した。念仏を称えたら阿弥陀仏に救われると思う人は行の座に、念仏一声称えずとも信心ひとつで救われると思う人は、信の座にお入り下さい〉。これに対して、ほとんどの者は行の座に入り、信の座は親鸞聖人を含めてわずか4人であった。最後は法然上人の裁決となり、上人も信の座に入られて、阿弥陀仏の本願に救われるのは信心一つと明らかにされた。(「御伝鈔」)

 パンフレットでは続けていう。「いくら念仏を称えていても本願に対する疑心のある間は救われません。ツユチリ程の疑心もなくなった時に救われるのですが、そうなった事を信心決定と申します。浄土真宗の念仏は、救われた人のお礼の言葉であります。故に親鸞聖人の教えは、信心正因称名報恩、これを骨格とします。今日も、多くの人が念仏を称えたら救われると思っていますが、大変な間違いです」。これまた、いまひとつの「常識」打破をめざしたものであることは明らかであろう。

 第三は、「信心同異の諍論」である。

 ある時、親鸞壁人が、法然上人の高弟勢観房、聖信房、念仏房に対し、〈私の信心も、法然上人のご信心も、全く同一である〉と宣言された。しかし、信心決定していない3人の弟子達にその実感はない。そこで、〈私らのような者が、どうして知恵第一の法然上人のご信心と一緒になれようか。信心は異なってこそあたり前、親鸞の言葉は、わが師匠を冒漬するものだ〉と非難した。法然上人は双方の言い分を聞いて言われた。〈信心の異なるというのは、自力の信心、いまだ阿弥陀仏に救われていないのだ。阿弥陀仏よりたまわる他力の信心の喜びは、全く同一であり、親鸞の主張が正しい〉。(「御伝鈔」)

 そして読者に対し、「〔あなたも〕親鸞聖人の出られたと同じ世界を体験できるのです」というわけである。真理の前には万人が平等であるというこのような原理主義的ラディカリズムも、いわゆる「常識」のなかではきわめて希薄なものにちがいない。
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