新宗教の風土 真宗「原理主義」の台頭

「破邪顕正」


 ここから後は、会の歴史をたどることになるが、そのなかでまず目につくことは、創価学会や本願寺などとの対決の跡が随所に刻み込まれていることである。破邪顕正(誤った教えを打ち破り、正しい教えを打ち出すこと)を祖師親鸞の遺訓とする親鸞会は、この破邪のエネルギーによって教勢を拡大し、発展してきたといっても言い過ぎではない。その名も『顕正新聞』と命名された機関紙が発刊されたのは、創価学会との対決がピークに達した1962(昭和37)年のことであった。70年代になると会の組織化も進み、『こんなことが知りたい』『白道燃ゆ』などの高森師の著書の刊行が開始され、1976年にはブラジル布教が、翌77年にはアメリカ布教が始まる。しかし、教団史に残る出来事として特筆しなければならないのは、やはり、1980年からの西本願寺との全面対決であろう。

 それまでにも両者は、教義に関する見解の違いをぬぐってビラ合戦などを展開していたが、先述のように、1979年12月、本願寺派の教学研究機関伝道院の紀要に親鸞会を非難した紅楳英顕氏の論文「現代における異義の研究──高森親鸞会の主張とその問題点」が掲載されたことが、そもそもの発端となる。紅楳論文の要点は、「親鸞会の主張する宿善論は、親鸞聖人や蓮如上人、真宗先哲の見解と甚だしく異なるものであり、全くの謬見であり、異義である」というものであったが、親鸞会はこれを故意の中傷であるとして紅楳氏に幾度も質問状を送り、これに紅楳氏が誠実に答えていないとして、事態はエスカレートしていった。

 まず1980年5月、親鸞会青年部・学生部の会員約1000人が西本願寺境内に集結して抗議集会を開き、マスコミもこれをいっせいにとりあげて世間の耳目を集めた。その後も親鸞会は執拗に追及の手を休めず、翌81年には両者の交わした書状と高森師の反論を載せた『本願寺の体質を問う』を刊行する。続いて82年には、しびれを切らした親鸞会会員約500人がふたたび本山の堂内に座り込み、抗議のアピールをおこなうが、ここにいたって本願寺もなんらかの対応を迫られることになり、同年末には紅楳氏の『派外からの異説について』と宗義問題研究会の名による『現代の教学問題──派外からの論議について』という反批判の書が公刊された。しかし、これはかえって火に油を注ぐ結果となり、翌年早々親鸞会は両書に対する公開質問状を提示する。そしてふたたび書簡による応酬の後、84年1月、明確な回答を求めた1500人の会員が三たび西本願寺に集結し、深夜にいたる抗議行動に及んだ。同年親鸞会から刊行された『本願寺なぜ答えぬ』はその間の経緯をあきらかにしたものである。このような実力行使についてはさまざまな見方がありえようが、少なくとも親鸞会にとっては、この本願寺との対決が、その後の発展の跳躍台になっていることは疑いない。

*余談になるが、この論争に関する公平な判断を得たいと伝道院を訪ねたわたしは、関係資料はおろか『伝道院紀要』さえ見せてもらえず、早々に追い返されてしまった。あつものにこりてなますを吹くていの怯えように、わたしは天下の本願寺の凋落ぶりを思い、嘆息せずにはいられないものがあった。

 それはさておき、この間高岡市に置かれていた本部は、1988年、富山市に隣接する小杉町の丘陵地帯に移転し、あわせて5000人を収容する大小二つの講堂をはじめ、アリーナ・子供室・食堂・納骨堂などを備えた大規模な会館が建設されて、その面目を一新した。現在の会員数は約10万人で、支部は全国にいきわたり、教勢はさらに南米・北米・台湾・韓国にまで及んでいる。
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