新宗教の風土 真宗「原理主義」の台頭

「死線を越えて」


 高森師のイメ一ジがある程度できあがったところで、彼の生い立ちと、会の簡単な歴史について述べておきたい。親鸞会では、教祖はあくまで親鸞聖人であるという立場から、新宗教と呼ばれることを好まず、高森師もみずからを親鸞学徒と唱えて、自身については多くを語っていない。したがって、その生い立ちには不明の部分も少なくないが、およそのところはつぎのとおりである。

 彼は1929(昭和4)年、氷見庄の「安心惑乱」の舞台となった富山県氷見市の本願寺派寺院に生まれた。今年(1996年)で満67歳になる。45年の敗戦の年に、彼は16歳で特攻隊に志願し、戦後復員してきた。親鸞会の組織には上隊・中隊・小隊などの軍隊式の名称が使われているが、これは彼の戦争に対する批判とは別に、軍隊組織に対する一定の評価があるからだという。復員後まもなく、彼は龍谷大学の専門部に進み、翌年、18歳のときに信心決定したといわれる。彼は、1983年10月30日の結成25周年記念大会における表白文のなかで、つぎのように述べている。

かえりみますと30有余年前。天皇の軍隊、無敵海軍、八紘一宇、聖戦だ、欲しがりません勝つまでは、と教えられ、神州不滅を信じ、悠久の大義に生きるのだと感激して、海軍航空隊に入隊。ところが敗戦で打ちのめされ、ふりかえってみると、とんでもない、信じ切っていたことはみなウソっぱち。いい調子に踊らされていた怒りと驚きは、まさに気も狂わんばかり。踊らした奴こそ許せぬ大悪党ですが、だまされてきた私もとんだ間抜け、大馬鹿者でありました。もう二度とだまされはしないぞと、心にきめていた矢先、如来聖人の御念力で、「だまされて、地獄に堕ちても後悔しない」南無阿弥陀仏の妙法に生かされ、永の迷いの打ちどめをさせて頂くことができました。不可称不可説不可思議の、開かれた心眼で周囲を見わたし、また驚いた。世界の光であるべき真宗が、腐敗堕落の極にあり、外には邪教がバッコし、だまされ苦しんでいる大衆は、かつての私の相であった。なにを一体なすべきか。ふるい立った私に、親鸞さまは、こうおすすめ下された。「他力の信をえん人は、仏恩報ぜんためにとて、如来二種の廻向を十方にひとしくひろむべし(正像末浄土和讃)」。

 龍谷大学の専門部から仏教学部に転じた彼は、1951年、卒業とともに、在学中からの布教活動を強化し、翌52年、早くも68名の会員を集めて「徹信会」を発足させた。親鸞会の前身である。そのころの高森師は、よく「死線を越えて」という腕章をつけて、辻説法に立っていたという。

かかる宗門の危機を促す、激しき時代の警告にも関わらず、なお自己の無信仰をも恥とせず、『わが伝統尊し』と固執する者もしあるならば、彼らこそ、実に新興宗教よりも、共産思想、はたまたキリスト教より以上に憎むべき、おそるべき獅子身中の虫であり、過日また、何の面目あってか、親鸞、蓮如にまみえんやと言わざるを得ません。要するに、かかる教界の無信仰の焼け野原に立って、静かにわれわれの行くべき道を洞察する時、宗門の現状に対しては、いくたの改革すべきものがある。しかしながら、その前にわれわれは、親鸞の狙った仏教魂とは何か、蓮如の伝えた法流とは何ぞや。親鸞をして北越や関東の風雪と戦わしめ、蓮如をして応仁の戦国時代のまっ只中に向かわしめた弥陀の光明に、われわれの若き血潮を打ちこもうではないか。
若き宗門学徒諸君よ。まず、汝を燃やせ。しからば、他を焼かん。

 これは、高森師が龍谷大学時代、弁論大会で優勝したときのレコードを再録したものだが、辻説法に立って獅子吼する彼の姿を彷彿させるものがある。いまの老成した彼の姿からは、想像のつかないものである。

 やがて、活動の拠点はしだいに富山県西部の中心都市高岡市に移り、1957年、同市前田町に布教のセンターともいうべき徹信会館(後の親鸞会館)が建設された。翌年、会は宗教法人となり、会名も浄土真宗親鸞会と改まる。この間、彼は、1947年に得度して僧侶の資格を得ているが、70年には本願寺派の僧籍を離脱している。
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