新宗教の風土 真宗「原理主義」の台頭

死の床


 最後に、親鸞会が作製した一本の会員向けの布教用のビデオを紹介したい。それは『心の世界(1)谷本貞三氏の聞法の記録』と題する40分ほどのビデオだが、以下はその内容を、わたしなりにまとめたものである。

 このビデオの主人公谷本貞三さんは、岐阜市で建設会社を営んでいた。高森師を知ったのは1962(昭和37)年ころである。しかし、当時は深くつきあうというほどではなく、本願寺の教師に勧められれば、西国八十八所の巡礼などにも参加していた。その彼が、浄土真宗の教えに目を開かされるようになったのは、1964年、親鸞会が谷本建設に滋賀会館の建設工事を発注してからのことである。谷本さんが48歳のときであった。建設工事が縁で善知識(高森師)に接する機会を得た谷本さんは、その後急速に仏縁を深めていった。会館建設後はますます求道に拍車がかかり、高森師の法話のある所にはいつも谷本さんの姿があった。また、会社のビルに40畳ほどの大広間を作り、高森師を招いて社員に法話を聞かせるという熱の入れようであった。

 ところが、1976年のはじめごろ、満60歳を迎えた谷本さんは、体調の変化に気づき、岐阜県立病院などで検査を受ける。彼を襲ったのは膵臓ガンだった。病気はしだいに悪化し、10月中旬には家族の者に、あと2か月、正月くらいまでの寿命と宣告される。11月に入り、谷本さんはガンと知らされないまま市内のM病院に入院。そのころはすでに食事ものどを通らず、外科手術も無理ということで、点滴だけが命の綱となった。12月になると鎮痛剤の本数が増え、ついにモルヒネの使用がはじまる。しかし、奥さんは「麻薬は、そのとき楽になるかもしれないけど、一時的なものだし、阿弥陀様のことが思えなくなったら困るで、できるだけ我慢して使わんようにしようね」と谷本さんに話し、納得のうえ中止と決まった。

 この間高森師は谷本さんの病床を見舞い、その後もたびたび葉書を書いて励ましているが、つぎにそのなかの一通を紹介しておこう。これは、12月13日付のものである。「合掌、阿弥陀仏は見聞知のお方、心の底までお見抜きです。ただ全てをまかせよと、お呼びづめです。逃げても逃げても仏智無辺にましませば、散乱放逸も捨てられぬ。地獄の釜の底までも、共に堕ち、共に苦しみ、歎き給う。弥陀は十劫より調熟し、釈迦の八千遍の往来は、貴方一人の為です」。

 12月中旬から下旬にかけて、谷本さんはたびたび危篤に陥った。奥さんは、なんとか信心決定してもらいたいと、枕元で高森氏の葉書や著書を読み、また講座のテープを聴かせる必死の努力をかさねた。

 12月24日の夕方、浅倉保講師は富山県高岡市の親鸞会館で、会合に出席していた。予定より早く会が終わったので、彼はふと谷本さんを見舞いに行かなければという気持ちになる。浅倉講師は、1970(昭和45)〜73年にかけて岐阜県担当講師として谷本建設のビルに居住し、谷本さんには公私ともにお世話になっていたからである。高岡駅5時すぎの特急に飛び乗り、M病院についたのが夜の9時。こんな時間では面会できないことに気がつき翌日の8時半、ふたたびM病院に向かった。面会謝絶と聞いていたので廊下で奥さんにお見舞いをいって帰ってこようと思っていたが、奥さんは意外にも入って話をしてやってほしいといった。浅倉氏は迷った。入って話をすれば説法になる。しかもいまの病状からすればほとんど臨終説法に近い。いったい、なにをどう話せばいいのか。しかし、話してほしいといわれて引き下がるのは仏法者ではない。いくら拙い話でも日ごろ高森先生から聞かせていただいていることを、全力で叫び抜くのが専任講師の使命だ。そう自覚した浅倉氏は、静かに病室に足をふみいれた。
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